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Standard was born [我が心のジョージア]



 

レイ・チャールズは1930年生まれのアメリカジョージア州出身の歌手、ピアニストです。
幼いころに失明し盲目というハンデを背負いながら「ソウルの神様」と呼ばれるカリスマとなった人です。

 

当時アメリカでは人種差別が公然と行われていました。

レイ・チャールズが生まれたジョージア州では州の憲法により黒人から選挙権を取り上げるなど、差別が憲法により行われていました。

あるとき、レイはジョージア州で行われるはずだった自身のコンサートをキャンセルする事件が起きました。

キャンセルした理由はコンサート会場に柵を設けて黒人をその外側に強制的に誘導しているのを見たためです。

当時は白人と黒人で席を別にするなどの行為が当たり前のように行われていました。

このドタキャンを理由にジョージア州議会はレイ・チャールズを永久追放とします。

そのためレイは自分の生まれ故郷であるジョージア州内で活動が出来なくなってしまいます。

 

 

…と、この出来事を見るとレイは黒人の人権を回復するために戦うミュージシャンのようにも見えますが、レイは気難しく、麻薬の使用もそのころは激しかったようなので、ただただイライラして衝動的にキャンセルしたのかもしれません。

実際継続的に差別に抵抗するような運動はしていなかったようですからね。

 

レイはジョージア州を追放されてからもアメリカはおろか、フランスからイスラエルまで世界中で自身の魂を歌い続けます。

そんな中、アメリカの世論がキング牧師などを中心とした公民権運動などの影響で、徐々に人種差別撤廃の方向に向かいます。

その結果として人種や性別による差別を禁止する公民権法が1965年に制定されます。

そんな人種差別撤廃の流れや、レイ自身が世界中で精力的に活動してきたこともあり1979年ジョージア州議会がレイ・チャールズに対する過去の対応を謝罪し両者は和解となりました。そしてこのときGeorgia On my mindが正式にジョージア州の州歌とする議決が採択されました。

故郷を追われてからも、世界中で「ジョージアは過去のものとなってしまったけれども、思いは募るばかり」と歌ってきたレイのGeorgia On my mindを州歌として正式に制定することで、州議会は人種差別撤廃を世界に向けてアピールしたかったのかもしれません。

 

レイ自身は故郷であるアメリカ合衆国やジョージア州の事を本当はどう思っていたのでしょうか?

同じく黒人ミュージシャンであるマイルス・デイヴィスは白人による人種差別を公然とするアメリカを嫌悪し「カストロはアメリカを批判するのに3日かかると言ったが、俺なら2週間かかる」という言葉を残しました。

幼い頃から黒人として生まれたことによって差別と戦ってきたレイにとっても、故郷アメリカやジョージアに対する思いは複雑なものであったのではないかと思います。

それでも自身が歌い続けてきたGeorgia On my mindが議会で正式に州歌として制定されるまでになるというのは、世の中にある差別や偏見との戦い方としては最も価値のある勝利です。

 

レイ・チャールズはその後も精力的に音楽活動を続け2004年には自身の伝記映画「Ray」が公開されます。

しかしその2004年の6月10日に肝臓がんで死去。

結局完成されたその伝記映画を見ることは出来なかったようです。

 

黒人に生まれしかも盲目であるということは当時のアメリカに生まれたものとしては大きなハンデとなったでしょう。

ミュージシャンに限らず多くの黒人が激しい人種差別を受けていました。
ブルースというのは黒人の労働歌です。

差別という理不尽な出来事をブルースという音楽の素晴らしい形式に昇華した当時の黒人ミュージシャンは本当に素晴らしいです。

 

このように音楽というのは生活と密接に関係しているものです。

音楽をただ音として聴くだけでなく、背景まで知ることによってより深くその曲を理解できます。

そんな曲の背景や裏話をこれからもここで紹介していきます。

 





komamurashunyaライター: 駒村俊弥
 1988年生まれ。ベーシスト。都内を中心に活動中。ミュージシャンという枠にとらわれず、自分の生き方や発言で自分の哲学を表現できるように日々奮闘中
HP:http://bbbaasss.web.fc2.com/
blog:http://ameblo.jp/a-einstein1955/

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