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音楽留学報道局 L.A.支局 Vol.11


約一年間滞在したロサンゼルス。ぼくのアメリカ生活はいよいよ終わり、このコラムもついに最終回を迎えます。
最後にジャズを愛好する人ならば一度は訪れたい街、ニューオリンズへ行くことができました。今回はそのニューオリンズにクローズアップしていきたいと思います。

 

ジャズが生まれた街ニューオリンズ。

まず、なぜニューオリンズでジャズが生まれたのか少し歴史を見てみようと思います。

 

ニューオリンズはアメリカ南部ルイジアナ州最大の都市です。

17世紀末からフランスにより植民地化され、1763年にはスペインに、1800年からは再びフランスになり、1803年にはアメリカに売却されます。
合衆国最大のミシシッピ川の河口付近にあり、19世紀初めからヨーロッパ、カリブ海経由で入ってくる輸入品、ミシシッピ川をおりてきた生産物の交易の要として大きく栄えました。また国内最大の奴隷市場としても機能していました。

この頃から綿花産業などの隆盛により、はじめは一農家4,5人の奴隷だったがやがて数十人、数百人を越える大規模農園ができました。
農園で働く奴隷がいる一方、農場主の身の回りの世話をするハウス奴隷と呼ばれる黒人もいました。ハウス奴隷は農場主に子どもを産まされることもあり、その子どもたちクレオール(白人と黒人の混血)は白人同等の教育を受けていました。

1865年南北戦争の南軍の敗北により黒人奴隷を手放さなくてはならなくなった農業主たち。その怒りから今まで白人同様の扱いを受け、白人同様の生活をしてきたクレオールたちは黒人たちと同じく差別されていくことになりました。

奴隷解放以前から日曜日にコンゴスクエアと呼ばれる広場で踊り音楽を奏でることを許されていた奴隷たち。ここへ音楽教育を受けたクレオールたちが入り込んでいきました。また軍の解散により安価に出回りブラスバンドがたくさんできました。
こうして白人のもつ音楽の文化と黒人たちの音楽の文化が合わさっていくことになりました。

 

また1902年にはスコット・ジョプリンによりエンターテイナーが発表されました。
今までのクラシックとは違うシンコペーションを多用したラグタイムというスタイルができました。

1897年には横行していた売春を管理するため公娼地区ストーリーヴィルが設置され、売春宿やストーリーヴィル周辺の酒場やダンスホールでの音楽の需要が増加。ここでジャズが演奏されていきます。
また今まで外で演奏されていたブラスバンドとピアノが一緒に演奏されはじめさらに新たな音楽の融合がはじまりました。

1914年に第一次世界大戦が勃発。アメリカは静観しストーリーヴィルは相変わらず賑わっていましたが、1917年の参戦をきっかけにニューオリンズの港湾地区は海軍基地として機能し、兵士への性病の蔓延を懸念され政府によって閉鎖されました。

北部の工業産業の発展、南部の農業産業の衰退により多くの人がニューオリンズを離れ北上していきました。ミュージシャンもまたそうでした。そうしてジャズの中心はニューオリンズからやがてシカゴへと移っていきました。


 

さてここからは現在のニューオリンズの音楽について書いていこうと思います。

ニューオリンズの繁華街フレンチクォーター。

 

その名が示す通りヨーロッパ風の街並が広がる区画です。
色鮮やかな外壁に、通り沿いに取り付けられたバルコニー、そこでゆったりと過ごす人々。まるでヨーロッパの街を歩いている雰囲気です。

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